新刊のごあんない(2020年12月発行)吉田松陰研究所 紀要第2号


 吉田松陰研究所は、明治維新の原動力となった多くの人材を育てた教育者である吉田松陰に関する調査・研究を行い、その成果を提供することにより、地域の発展に寄与することを目的として、2018(平成30)年、至誠館大学内に設置しました。

1.内容 論文
  • 「吉田松陰と坤輿図識」三宅紹宣
  • 「名字説に何を期待したか」海原徹
  • 「松陰門下生:毛利敬親」(1)小山良昌
野村興兒学長特別インタビュー
  • 「松陰、左内、象山からダイアーへ 明治に結実した松下村塾の教育思想」関 厚夫
2.発行部数 500部(発行日 2020年12月20日)
3.贈呈先 萩市内高等学校・中学校
山口県内市町立図書館、博物館・資料館、全国の大学図書館など
4.販売価格 1,000円(税込)

論文等の要旨(抜粋)

吉田松陰と「坤輿図識」 三宅紹宣

 本稿は、吉田松陰と「坤輿図識」のかかわりについて、松陰の書き込み等の学習の痕跡を復元することによって、その海外認識を解明しようとするものである。「坤輿図識」については、萩松陰神社に松陰手沢本が伝存している。そこには、おびただしい書き込みや、校訂の跡、朱点があり、松陰の熱心な研究ぶりがうかがえる。それを丹念にたどることによって、松陰の関心、そこから得たであろう海外認識など多様な情報を汲み上げてみたい。

 この作業は、従来の松陰研究を克服していく上でも、重要な意義を有している。それは、これまでの松陰研究は、『吉田松陰全集』に依拠して行われてきたが、『全集』には、海外関係史料が収録されておらず、また解説にも触れられていないという問題がある。このため、松陰の海外認識に関する部分を欠落させたまま松陰研究が行われてきており、このことが、松陰の攘夷論は、海外のことを知らない無謀な考えだとするイメージを作る原因になっている。したがって、『全集』のみに依拠した研究を克服していく必要がある。本稿では、まず松陰と「坤輿図識」のかかわりを分析し、次に「坤輿図識」のアメリカ・イギリス・フランスの部分を翻刻して、そこに松陰がどのような書き込みをしているかを明らかにし、さらに、松陰の海外認識がその思想にどのような影響を与えているのかを具体的に検討したい。

(70ページ)

「名字説」に何を期待したのか 海原徹

 名前に関する公的管理のない江戸時代の人びとは、いろんな名前を自由に称し、時と場合によってさまざまに使い分けた。士農工商の別を問わず、一般的な意味で名前は、もともと個々人のもの、いわば私的な所有物であり、自由に取捨選択することができた。(中略)

 松陰先生との出会いで、その人と為りに深く感銘を受け、尊敬の念を抱くようになった人たちが、心機一転、何か新しい人生を切り拓こうとするとき、ぜひとも先生に名付け親になって欲しいと申し出た。名や字を新しくすることで、旧い生活のしがらみをいったんすべて断ち切り、今後の自らの生き方、人生に立ち向かう確たる指針を得たいという願いである。「名字説」はそれに応えるかたちで作成された。(中略)

 (松陰は)落ち着いて机に向かっていたのはごく限られた期間でしかないが、それでも、前後2回の野山在獄中に8名、幽室に始まる村塾時代に12名、計20名の「名字説」を作っている。

(1~2ページ)

松陰門下生:毛利敬親(1) 小山良昌

 藩主毛利敬親と吉田松陰の関係について、松陰満10歳の時、11歳年長の敬親公に親試(講義)を行ったことは、巷間よく周知されている。

 藩主である敬親公を「松陰門下生」と表記することについて、違和感を覚える方もいるかもしれませんが、松陰の家族以外の者では、20年近い間松陰の門下生的な立場で親交を深めた人は敬親公ただ一人であった。最初の10年間は隔年ごとではあるが藩校明倫館や萩城内における「親試」において、山鹿流兵学を中心として孫子や中庸などの中国の古典や題を探して詩を賦すなど、藩主と家臣の関係を超えた濃密な子弟関係・信頼関係を醸成していた。

 一方、敬親公への上申書を介しての親交は、嘉永5年(1852)松陰が士籍を除されて後、藩への上申は御法度であるにもかかわらず、翌年のペリー来航を機に兵学門下生の重臣益田弾正の手を介して、厳罰は承知の上、敬親公へ上申書「将及私言」を提出した。以後松陰が処刑される安政6年(1859)までの8年間、両名が直接対面することはなかったが、天朝への忠誠心を基に、対外政策、国防、西洋兵法の採用、藩主の在り方、藩吏の人事など多岐にわたって上申した。この松陰が血を吐く様な思いを込めた上申書は、敬親公の藩政上に大きな影響を与えたに違いない。

 以上のことから、敬親公こそは松陰第一の門下生であったと称しても、過言ではないと思料する。

 そこで、前半では吉田松陰の皇国信条、敬親公への親試、敬親公との親交、について記述し、後半はペリーの来航以後、激動の時代を迎えたなかで、上申書を介して敬親公へ種々アドバイスをしたが、やがて松陰の思考が尖鋭化すると、他の門下生と同様に敬親公との関係も疎遠となっていった。その両人の関係を松陰の上申書を介して明らかにする。

(11ページ)

明治に結実した松下村塾の教育思想(学長インタビュー) 関厚夫

 筆者は昨年、勤務する産経新聞社のWeb版連載企画『歴史の転換点から』第3シリーズで、「大獄に死す 松陰と左内の『奇跡』」(全9回)という記事を執筆した。(中略)

 今回、前記『歴史の転換点から』で収載した本学の野村興兒学長のロングインタビューを大幅加筆・修正した「拡大版」を通じて、以下の観点から「吉田松陰」を考えてみたい。

 すなわち、主題は近代日本という「ものづくり大国」の礎をなす工学の発展にも寄与した松陰の教育、ならびにその教育思想を実現した工部大学校や工部省の軌跡とそれにまつわる人びと。また副論題としては、松陰と師・佐久間象山、そして研究者の間でも取り上げられることが絶えてなかった松陰と橋本左内がともにした「志」──近代国家を建設してゆくための教育観──である。

(27ページ)

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